「賃上げしたいのはやまやまだが、経営的に無理だ」——多くの社長がそう言います。しかし現実は、賃上げしないことのほうが、より深刻なリスクを招いています。
帝国データバンクの調査によれば、2024年に発生した「従業員退職型倒産」は87件と過去最多を記録しました。人手不足による倒産全342件の約4分の1が、賃金水準の低さや労働環境への不満から従業員が退職し、業務が継続できなくなったことが直接原因です。
特に顕著なのは、IT産業・人材派遣・美容室・老人福祉施設といったサービス業と、設計者や施工監理者の離職が相次いだ建設業界です。これらの業種に共通するのは、「人が抜けると業務が止まる」という構造です。売上があっても、現場を動かす人間がいなければ、会社は動きません。
倒産した企業の多くは、賃上げの必要性に気づいた時には手遅れだったか、場当たり的な対応に終始していました。原資の裏付けなき賃上げは資金繰りを悪化させます。しかし、賃上げをしないまま優秀な人材を失い続けた企業は、それ以上の打撃を受けています。この二律背反に見える問題に、どう向き合えばよいのでしょうか。
答えは「計画的な賃上げ」にあります。財務的基盤を確認したうえで、複数年のロードマップを描き、事業計画と連動させた形で実施することで、賃上げは経営の足かせではなく、人材確保と生産性向上の両方を実現する戦略的投資に転換できます。
財務を軸とした経営コンサルタントとして30社以上の資金繰り改善・事業計画支援を行ってきた経験から、賃上げ問題の本質と、財務的に持続可能な実施方法を詳しく解説します。
渋沢栄一が「論語とそろばん」で説いた「道徳と経済の両立」の精神と、二宮尊徳の「推譲」思想——従業員の成長を将来への先行投資として捉える視点——から、賃上げ問題を財務理論と結び付けて解説します。
この記事を読むことで、あなたは以下を得ることができます:
中小企業庁の「2025年中小企業白書」は、収益力のある事業計画と賃金水準の相関関係を明示し、賃上げを単なるコスト増ではなく「人材への戦略的投資」として位置づける必要性を、データとともに提示しています。この記事で紹介する5つのステップは、その考え方を実践に落とし込んだものです。
賃上げを「できるかどうか」ではなく「どう計画するか」という問いに変えること——この視点の転換が、人材確保と財務健全性を同時に実現する経営の核心です。
2024年、帝国データバンクが公表した「人手不足倒産」の調査結果は、多くの経営者にとって他人事ではない数字を含んでいます。人手不足を起因とした倒産件数は342件。その内訳として、従業員の退職・離職によって事業継続が困難になった「従業員退職型」が87件にのぼり、これは過去最多の記録です。
2024年 人手不足倒産(帝国データバンク)
従業員退職型(過去最多)
全人手不足倒産に占める退職型の割合
この数字が示すのは、「賃上げしない」という選択肢の消滅です。特に影響を受けているのは、人的スキルへの依存度が高い業種です。IT産業ではエンジニアの転職、人材派遣会社では登録スタッフの流出、美容室では技術者の独立、老人福祉施設では介護士の離職、建設業では設計者・施工監理者の退職——いずれも「代わりの人材をすぐに確保できない」構造が共通しています。
これらの倒産事例の多くに共通するパターンがあります。①賃金水準が市場相場を下回ったまま放置される、②優秀な人材から順に転職していく、③残った人員への業務集中が発生する、④さらなる離職が続く、⑤業務継続が不可能になる——この悪循環が加速する形で倒産に至っています。
2025年版中小企業白書は、「事業計画を策定し、収益目標を持つ企業ほど賃上げの実施率が高く、かつ賃上げ後も業績が安定している」というデータを示しています。計画なき賃上げではなく、事業計画と連動した賃上げこそが、財務的持続可能性の鍵であることが、国の調査でも裏付けられているのです。
「賃上げが必要だとわかっている。しかしどうやってやればいいかわからない」——そう言う社長に限って、いざ賃上げをする際に場当たり的な対応をとりがちです。競合他社が賃上げしたから、採用が決まらないから、退職者が出たから、といった外部刺激に反応するだけの賃上げには、財務・組織の両面から深刻なリスクがあります。
収益力と無関係な賃上げは、資金繰りを直撃します。総人件費が売上総利益(粗利)の許容範囲を超えた時点で、会社は赤字構造に入ります。例えば、粗利率20%の会社が人件費を10%引き上げた場合、その分をまかなうには売上を5%以上増加させるか、他のコストを同額削減しなければなりません。この計算を事前にしていない社長が非常に多いのです。
⚠️ 実例:ある製造業(従業員15名、年商1.5億円)の社長が採用難を理由に全員一律5万円の月給引き上げを実施。年間人件費増は900万円。しかし粗利率は22%(約3,300万円)であり、固定費の大半がすでに人件費だったため、翌期に赤字転落。1年後に経営危機に直面しました。
評価基準のない賃上げは、むしろ組織の分断を招きます。「なぜあの人だけ給料が上がったのか」「自分の貢献は評価されていない」という感情は、残った社員のエンゲージメントを大きく損ないます。動機づけ心理学の研究(デシ・レッパー「内発的動機理論」)でも、外的報酬の与え方が不公平と感じられた場合、むしろ職場への関与意欲が低下することが示されています。賃上げそのものより、誰に、なぜ、いくら上げたのかという基準の透明性が、組織への影響を大きく左右します。
金銭的動機づけのみに頼った賃上げは、効果が長続きしません。競合他社が翌年さらに賃上げすれば、今年の自社の賃上げは相対的に無意味になります。また、最低賃金の引き上げペースを考えると、対症療法的な賃上げを続けるだけでは、財務的余裕が削られ続けるだけです。賃上げは「いくら上げるか」ではなく、「どのような成長と連動させるか」という設計の問題なのです。
計画的な賃上げを実現するための第一歩は、「今の財務状況で、賃上げ原資をどう確保するか」の試算です。感覚で判断するのではなく、損益計算書と資金繰りの両面からシミュレーションする必要があります。
前提:年商1億円、粗利率25%(粗利2,500万円)、現在の総人件費1,200万円の会社
賃上げ額:1,200万円 × 10% = 120万円/年の追加人件費
必要な対応策(いずれかまたは組み合わせ):
重要:この計算を事前に行わずに賃上げを実施した場合、数字のうえでは問題なく見えても、資金繰り上の現金流出タイミングによっては月次の手元資金が不足するケースがあります。損益だけでなく月次資金繰り表への反映が不可欠です。
上記の計算例が示すように、賃上げは単独では考えられません。価格戦略の見直し、コスト構造の改善、生産性向上——これらと一体的に設計することで初めて、財務的に持続可能な賃上げが実現します。「賃上げするための事業計画」ではなく、「事業計画の結果として賃上げが可能になる」という順序が正しいアプローチです。
| 確認項目 | チェック | 確認内容 |
|---|---|---|
| 粗利の確認 | □ | 現在の粗利率と年間粗利額を把握しているか? |
| 人件費比率 | □ | 総人件費÷粗利の比率を計算したか?(理想は60〜70%以内) |
| 賃上げ原資 | □ | 賃上げ後の人件費比率はどう変わるか? |
| 月次資金繰り | □ | 賃上げを反映した月次資金繰り表を12ヶ月分作成したか? |
| 対応施策 | □ | 売上増・価格改定・コスト削減のどれで原資をまかなうか? |
財務的持続可能性を確保しながら賃上げを実現するためには、以下の5つのステップを順に実施することが有効です。
向こう3〜5年の収益予測と賃上げシミュレーションを作成します。現在の粗利率・人件費比率・固定費構造を分析し、「この会社はどこまで賃上げできるか」の上限を数字で把握します。同時に、賃上げ原資を確保するための価格戦略の見直しとコスト効率化の施策を検討します。感覚ではなく数字が、賃上げ判断の唯一の根拠となります。
賃上げの基準を「公平で透明性の高い評価制度」として設計します。成果・スキル・役割・勤続年数など、自社に適した評価軸を定め、給与テーブルを整備します。「なぜこの給与なのか」を本人に説明できる体制をつくることが、組織内の不満発生を防ぐ最大の対策です。評価基準のない賃上げは、不公平感を生み、かえってモチベーションを下げるリスクがあります。
一度に大幅な賃上げをするのではなく、複数年にわたるロードマップを策定します。たとえば「3年間で段階的に月額平均2万円引き上げる」という計画を立て、各年の経営状況(粗利の達成度、資金繰りの余裕)と連動した柔軟な調整メカニズムを設けます。短期・中期・長期のマイルストーンを設定することで、会社と従業員の双方が見通しを持てる状態をつくります。
賃上げを単独施策として考えず、研修・育成制度の充実、働き方改革、福利厚生の見直し、従業員エンゲージメント向上策と一体的に設計します。金銭的な報酬だけで人材を引き留めることには限界があります。「この会社で働き続けたい」という内発的な動機を育てる環境整備が、賃上げと並行して不可欠です。
賃上げの目的・基準・スケジュールを社内に明確に伝えます。会社の業績や経営の方向性を共有し、「会社が成長するから賃金が上がる」という因果関係を従業員が理解できる状態をつくります。個別フィードバックの充実と双方向コミュニケーションの促進により、従業員が自分の評価と処遇に納得できる組織文化を醸成します。
従業員退職型倒産の増加という現実は、賃上げの必要性を強く示しています。しかし、それは場当たり的な対応ではなく、綿密な計画に基づく戦略的な取り組みであるべきです。
3年後に月額平均で○万円の賃上げを実現するという目標を先に設定し、そこから逆算して必要な粗利額・粗利率を決定します。賃上げが利益の「残り物」にならない設計が重要です。
取引先への価格改定交渉において、「人件費の増加」を根拠として使えるように準備します。価格改定による粗利改善→賃上げ原資の確保→人材定着・採用力向上→生産性向上という好循環の設計図を持つことが、経営者に求められます。
計画に対する実績の乖離を毎月確認し、賃上げロードマップの進捗を管理します。粗利が計画を下回った月には原資の調整を検討し、上回った月には前倒し実施を選択肢として持ちます。PDCAサイクルの中に賃上げを組み込むことで、計画は生きた管理ツールになります。
賃上げ問題を論じるとき、日本の先人の思想が現代経営に深い示唆を与えてくれます。
渋沢栄一は「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳」と説きました。これは抽象的な道徳論ではなく、「従業員への公正な処遇が長期的な経営の基盤になる」という実践的な主張です。賃上げをコスト増として嫌がるのではなく、従業員との信頼関係への投資として捉える——この視点が「論語とそろばん」の核心であり、現代の賃上げ問題に直接通じています。
二宮尊徳の「推譲」思想とは、今すぐ消費するのではなく、将来の成長のために一部を「推し譲る」——つまり先行投資するという概念です。人材への賃上げはまさにこれにあたります。今期の利益を人件費として投下することで、従業員の定着・成長・モチベーション向上が実現し、それが来期以降の生産性と収益として還元されます。目先の数字だけを追う経営ではなく、長期的な事業繁栄を見据えた「推譲」の精神が、計画的賃上げの思想的根拠です。
賃上げは単なるコスト増ではありません。人材という最重要資産への投資であり、企業と従業員が共に成長するための仕組みです。計画なき賃上げは財務を傷め、計画ある賃上げは人材を強化し、組織を育てます。先人の智慧と財務の数字、この両方を手に、経営者としての賃上げ判断を行うことが、今の時代に求められています。
賃上げの意思決定をする前に、まず自社の資金繰りの健全性を確認することが重要です。詳しくは黒字なのに資金繰りが苦しい根本原因の記事をご覧ください。
① 賃上げしないリスクは、賃上げするリスクより大きい
2024年の従業員退職型倒産87件が示す、賃上げ回避の現実コスト
② 賃上げの成否は「計画性」で決まる
財務シミュレーション・評価制度・ロードマップの3点セットが必須
③ 賃上げは事業計画と一体で設計する
利益の残り物から賃上げするのではなく、賃上げ目標から逆算して利益計画を立てる
毎週月曜日、経営の本質を突く洞察をお届けしています。
渋沢栄一・二宮尊徳・近江商人の智慧と現代経営理論を融合した
「収益満開経営」の実践法を無料で学べます。
※スマホ・PCですぐダウンロード可能。ステップメールにてお届けします。
※いつでも配信解除できます
合同会社エバーグリーン経営研究所
財務コンサルタント 長瀬好征
「和魂洋才」による収益満開経営で、失われた30年を終わらせ、
2200年の日本に繁栄を残す