「賃上げしたいのはやまやまだが、経営的に無理だ」——多くの社長がそう言います。しかし現実は、賃上げしないことのほうが、より深刻なリスクを招いています。
帝国データバンクの調査によれば、2025年度(2025年4月〜2026年3月)に発生した「従業員退職型倒産」は118件と過去最多を更新しました。人手不足を要因とする倒産全体441件(前年度比約1.3倍・年度ベースで初の400件超)のうち、約27%が従業員や経営幹部などの退職に直接起因しています。
特に顕著なのは、建設業(全体の約25%を占める)や道路貨物運送業、老人福祉事業、飲食店、労働者派遣業といった労働集約型産業です。いずれも「人が抜けると業務が止まる」構造を抱え、代わりの人材をすぐに確保できないという共通点があります。
倒産した企業の多くは、賃上げの必要性に気づいた時には手遅れだったか、場当たり的な対応に終始していました。原資の裏付けなき賃上げは資金繰りを悪化させます。しかし、賃上げをしないまま優秀な人材を失い続けた企業は、それ以上の打撃を受けています。この二律背反に見える問題に、どう向き合えばよいのでしょうか。
答えは「計画的な賃上げ」にあります。財務的基盤を確認したうえで、複数年のロードマップを描き、事業計画と連動させた形で実施することで、賃上げは経営の足かせではなく、人材確保と生産性向上の両方を実現する戦略的投資に転換できます。
財務を軸とした経営コンサルタントとして30社以上の資金繰り改善・事業計画支援を行ってきた経験から、賃上げ問題の本質と、財務的に持続可能な実施方法を詳しく解説します。
渋沢栄一が「論語とそろばん」で説いた「道徳と経済の両立」の精神と、二宮尊徳の「推譲」思想——従業員の成長を将来への先行投資として捉える視点——から、賃上げ問題を財務理論と結び付けて解説します。
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中小企業庁の「2025年中小企業白書」は、収益力のある事業計画と賃金水準の相関関係を明示し、賃上げを単なるコスト増ではなく「人材への戦略的投資」として位置づける必要性を、データとともに提示しています。この記事で紹介する5つのステップは、その考え方を実践に落とし込んだものです。
賃上げを「できるかどうか」ではなく「どう計画するか」という問いに変えること——この視点の転換が、人材確保と財務健全性を同時に実現する経営の核心です。
2026年4月、帝国データバンクが公表した「人手不足倒産の動向調査(2025年度)」は、多くの経営者にとって他人事ではない数字を含んでいます。人手不足を起因とした倒産件数は441件(前年度比約1.3倍)で、年度ベースで初めて400件を超え、3年連続で過去最多を更新しました。その内訳として、従業員や経営幹部などの退職によって事業継続が困難になった「従業員退職型」が118件にのぼり、これも過去最多の記録です。
2025年度 人手不足倒産(帝国データバンク)
従業員退職型(過去最多)
全人手不足倒産に占める退職型の割合
この数字が示すのは、「賃上げしない」という選択肢の消滅です。特に影響を受けているのは、人的スキルへの依存度が高い業種です。建設業では現場作業員や施工監理者の退職が相次ぎ全体の約25%を占め、道路貨物運送業ではドライバーの離職、老人福祉事業では介護士の離職、飲食店や労働者派遣業でも人材の流出が続いています——いずれも「代わりの人材をすぐに確保できない」構造が共通しています。
これらの倒産事例の多くに共通するパターンがあります。①賃金水準が市場相場を下回ったまま放置される、②優秀な人材から順に転職していく、③残った人員への業務集中が発生する、④さらなる離職が続く、⑤業務継続が不可能になる——この悪循環が加速する形で倒産に至っています。
2025年中小企業白書が示す重要な事実
2025年版中小企業白書は、「事業計画を策定し、収益目標を持つ企業ほど賃上げの実施率が高く、かつ賃上げ後も業績が安定している」というデータを示しています。計画なき賃上げではなく、事業計画と連動した賃上げこそが、財務的持続可能性の鍵であることが、国の調査でも裏付けられているのです。
「賃上げが必要だとわかっている。しかしどうやってやればいいかわからない」——そう言う社長に限って、いざ賃上げをする際に場当たり的な対応をとりがちです。競合他社が賃上げしたから、採用が決まらないから、退職者が出たから、といった外部刺激に反応するだけの賃上げには、財務・組織の両面から深刻なリスクがあります。
収益力と無関係な賃上げは、資金繰りを直撃します。総人件費が売上総利益(粗利)の許容範囲を超えた時点で、会社は赤字構造に入ります。例えば、粗利率20%の会社が人件費を10%引き上げた場合、その分をまかなうには売上を5%以上増加させるか、他のコストを同額削減しなければなりません。この計算を事前にしていない社長が非常に多いのです。
⚠️ 実例:ある製造業(従業員15名、年商1.5億円)の社長が採用難を理由に全員一律5万円の月給引き上げを実施。年間人件費増は900万円。しかし粗利率は22%(約3,300万円)であり、固定費の大半がすでに人件費だったため、翌期に赤字転落。1年後に経営危機に直面しました。
評価基準のない賃上げは、むしろ組織の分断を招きます。「なぜあの人だけ給料が上がったのか」「自分の貢献は評価されていない」という感情は、残った社員のエンゲージメントを大きく損ないます。動機づけ心理学の研究(デシ・レッパーによるアンダーマイニング効果の研究)でも、外的報酬の与え方が不公平と感じられた場合、むしろ職場への関与意欲が低下することが示されています。賃上げそのものより、誰に、なぜ、いくら上げたのかという基準の透明性が、組織への影響を大きく左右します。
金銭的動機づけのみに頼った賃上げは、効果が長続きしません。競合他社が翌年さらに賃上げすれば、今年の自社の賃上げは相対的に無意味になります。また、最低賃金の引き上げペースを考えると、対症療法的な賃上げを続けるだけでは、財務的余裕が削られ続けるだけです。賃上げは「いくら上げるか」ではなく、「どのような成長と連動させるか」という設計の問題なのです。
計画的な賃上げを実現するための第一歩は、「今の財務状況で、賃上げ原資をどう確保するか」の試算です。感覚で判断するのではなく、損益計算書と資金繰りの両面からシミュレーションする必要があります。売上総利益(粗利)の構造を正確に理解することが出発点になります。詳しくは売上総利益の錯覚から脱却する完全ガイドもあわせてご覧ください。
前提:年商1億円、粗利率25%(粗利2,500万円)、現在の総人件費1,200万円の会社
賃上げ額:1,200万円 × 10% = 120万円/年の追加人件費
必要な対応策(いずれかまたは組み合わせ):
重要:この計算を事前に行わずに賃上げを実施した場合、数字のうえでは問題なく見えても、資金繰り上の現金流出タイミングによっては月次の手元資金が不足するケースがあります。損益だけでなく月次資金繰り表への反映が不可欠です。
上記の計算例が示すように、賃上げは単独では考えられません。価格戦略の見直し、コスト構造の改善、生産性向上——これらと一体的に設計することで初めて、財務的に持続可能な賃上げが実現します。「賃上げするための事業計画」ではなく、「事業計画の結果として賃上げが可能になる」という順序が正しいアプローチです。
| 確認項目 | チェック | 確認内容 |
|---|---|---|
| 粗利の確認 | □ | 現在の粗利率と年間粗利額を把握しているか? |
| 人件費比率 | □ | 総人件費÷粗利の比率を計算したか?(理想は60〜70%以内) |
| 賃上げ原資 | □ | 賃上げ後の人件費比率はどう変わるか? |
| 月次資金繰り | □ | 賃上げを反映した月次資金繰り表を12ヶ月分作成したか? |
| 対応施策 | □ | 売上増・価格改定・コスト削減のどれで原資をまかなうか? |
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財務的持続可能性を確保しながら賃上げを実現するためには、以下の5つのステップを順に実施することが有効です。
1
向こう3〜5年の収益予測と賃上げシミュレーションを作成します。現在の粗利率・人件費比率・固定費構造を分析し、「この会社はどこまで賃上げできるか」の上限を数字で把握します。同時に、賃上げ原資を確保するための価格戦略の見直しとコスト効率化の施策を検討します。感覚ではなく数字が、賃上げ判断の唯一の根拠となります。
2
賃上げの基準を「公平で透明性の高い評価制度」として設計します。成果・スキル・役割・勤続年数など、自社に適した評価軸を定め、給与テーブルを整備します。「なぜこの給与なのか」を本人に説明できる体制をつくることが、組織内の不満発生を防ぐ最大の対策です。評価基準のない賃上げは、不公平感を生み、かえってモチベーションを下げるリスクがあります。
3
一度に大幅な賃上げをするのではなく、複数年にわたるロードマップを策定します。たとえば「3年間で段階的に月額平均2万円引き上げる」という計画を立て、各年の経営状況(粗利の達成度、資金繰りの余裕)と連動した柔軟な調整メカニズムを設けます。短期・中期・長期のマイルストーンを設定することで、会社と従業員の双方が見通しを持てる状態をつくります。
4
賃上げを単独施策として考えず、研修・育成制度の充実、働き方改革、福利厚生の見直し、従業員エンゲージメント向上策と一体的に設計します。金銭的な報酬だけで人材を引き留めることには限界があります。「この会社で働き続けたい」という内発的な動機を育てる環境整備が、賃上げと並行して不可欠です。
5
賃上げの目的・基準・スケジュールを社内に明確に伝えます。会社の業績や経営の方向性を共有し、「会社が成長するから賃金が上がる」という因果関係を従業員が理解できる状態をつくります。個別フィードバックの充実と双方向コミュニケーションの促進により、従業員が自分の評価と処遇に納得できる組織文化を醸成します。
従業員退職型倒産の増加という現実は、賃上げの必要性を強く示しています。しかし、それは場当たり的な対応ではなく、綿密な計画に基づく戦略的な取り組みであるべきです。
3年後に月額平均で○万円の賃上げを実現するという目標を先に設定し、そこから逆算して必要な粗利額・粗利率を決定します。賃上げが利益の「残り物」にならない設計が重要です。
取引先への価格改定交渉において、「人件費の増加」を根拠として使えるように準備します。価格改定による粗利改善→賃上げ原資の確保→人材定着・採用力向上→生産性向上という好循環の設計図を持つことが、経営者に求められます。
計画に対する実績の乖離を毎月確認し、賃上げロードマップの進捗を管理します。粗利が計画を下回った月には原資の調整を検討し、上回った月には前倒し実施を選択肢として持ちます。PDCAサイクルの中に賃上げを組み込むことで、計画は生きた管理ツールになります。
賃上げ問題を論じるとき、日本の先人の思想が現代経営に深い示唆を与えてくれます。
渋沢栄一は「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳」と説きました。これは抽象的な道徳論ではなく、「従業員への公正な処遇が長期的な経営の基盤になる」という実践的な主張です。賃上げをコスト増として嫌がるのではなく、従業員との信頼関係への投資として捉える——この視点が「論語とそろばん」の核心であり、現代の賃上げ問題に直接通じています。
二宮尊徳の「推譲」思想とは、今すぐ消費するのではなく、将来の成長のために一部を「推し譲る」——つまり先行投資するという概念です。人材への賃上げはまさにこれにあたります。今期の利益を人件費として投下することで、従業員の定着・成長・モチベーション向上が実現し、それが来期以降の生産性と収益として還元されます。目先の数字だけを追う経営ではなく、長期的な事業繁栄を見据えた「推譲」の精神が、計画的賃上げの思想的根拠です。
賃上げは単なるコスト増ではありません。人材という最重要資産への投資であり、企業と従業員が共に成長するための仕組みです。計画なき賃上げは財務を傷め、計画ある賃上げは人材を強化し、組織を育てます。先人の智慧と財務の数字、この両方を手に、経営者としての賃上げ判断を行うことが、今の時代に求められています。
賃上げの意思決定をする前に、まず自社の資金繰りの健全性を確認することが重要です。詳しくは黒字なのに資金繰りが苦しい根本原因の記事をご覧ください。
従業員の退職・離職により業務継続が困難になった倒産です。帝国データバンクの調査によれば2025年度に118件と過去最多を記録し、人手不足倒産全体(441件)の約27%を占めています。建設業・道路貨物運送業・老人福祉事業・飲食店など、人的スキルへの依存度が高い業種で多く発生しています。
財務的持続可能性の喪失、組織内の不公平感の醸成、効果の一時性という3つのリスクがあります。特に粗利率が低い企業で原資の裏付けなく賃上げを行うと、資金繰りを直撃する可能性があります。
総人件費の引き上げ額を粗利から捻出できるかを確認します。例えば粗利率20%の会社が人件費を10%増やす場合、売上を5%以上増加させるか、他のコストを同額削減する必要があります。月次資金繰り表への反映も必須です。詳しい試算方法は、無料メルマガ登録特典の資金繰りチェックシートでも確認いただけます。
① 賃上げしないリスクは、賃上げするリスクより大きい
2025年度の従業員退職型倒産118件が示す、賃上げ回避の現実コスト
② 賃上げの成否は「計画性」で決まる
財務シミュレーション・評価制度・ロードマップの3点セットが必須
③ 賃上げは事業計画と一体で設計する
利益の残り物から賃上げするのではなく、賃上げ目標から逆算して利益計画を立てる
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