📌 この動画で学べること
「原価を下げろ」と社員に言い続けている社長——その言葉は、社員を本気にさせているでしょうか。それとも、会社を弱体化させているでしょうか。
倒産寸前のアサヒビールに乗り込んだ樋口廣太郎が発した言葉は衝撃的でした。「利益を気にするな。原価を計算するな。全ての責任は私が取る」——銀行員出身・原価計算の専門家が、なぜこう言えたのか。
多くの社長は、財務改善の手段として「原価削減」を選びます。試算表の原価率が高ければ現場に圧力をかけ、コストを下げることを求める。しかしその結果、品質が落ち、顧客が離れ、売上が下がるという悪循環に陥ります。近年の倒産件数は年間8,000〜1万件(2024年:約1万件)で推移しており、「原価を下げているのに売上が落ち続けた」という会社が少なくありません。
さらに深刻なのは、原価削減の圧力が「言えない組織」を生み出すことです。社員は「コストを下げろ」という指令に応えるため、品質の問題を隠し、顧客の不満を報告しなくなる。財務の悪化は、数字よりも先に、組織の文化として始まっているのです。
財務を軸とした経営コンサルタントとして30社以上の支援経験から確信していることがあります。試算表の原価率が高い会社には、例外なく「社長が財務責任を現場に転嫁している」という構造があります。そして、その構造を変えた瞬間から、組織が動き始めます。
古典の叡智である二宮尊徳の「分度(ぶんど)」と「推譲(すいじょう)」——社長が財務の枠と責任を引き受け(分度)、現場が本来の使命に全力を尽くす(推譲)。樋口廣太郎の「計算するな」は、この思想の現代的実装でした。
この記事を読むことで、あなたは以下を得ることができます。
理化学研究所の研究により、人間の意思決定パターンは繰り返しの学習によって書き換えられることが証明されています。今日の試算表の見方を変えることが、4ヶ月後の経営判断の質を根本から変えます。「計算するな」は怠慢の言葉ではありません。計算を知り尽くした者だけが言える、最高度の財務戦略です。
まず、絶対に理解してほしい大前提があります。「原価を計算するな」という言葉を、計算のできない人間が言えば、それは単なる怠慢です。会社を潰す言葉です。樋口廣太郎の場合は、まったく違いました。
京都大学経済学部を卒業後、住友銀行に入行しながら、神戸大学第二経済学部の助手として会計学・原価計算を教えていた。著書には「私は京都大学を出て、一時、住友銀行で働きながら神戸大学第二経済学部の助手として会計学、とくに原価計算を教えていたこともあります」と記しています。原価計算の理論的限界を、学問として知り尽くした人物です。
コシノジュンコ氏の証言(『樋口廣太郎語録』155ページ)
デザイナーのコシノジュンコ氏は、樋口廣太郎について「何兆円という数字と、何銭という数字、両方の単位で見ている」と証言しています。これは「損切りの早さ」という文脈の中に出てくる言葉です。会社全体のマクロな財務構造を何兆円の単位で把握しながら、同時に1銭単位のミクロなコスト感覚で現場を読む——この両極の計数能力があるからこそ、損失が膨らむ前に切る判断が誰よりも速かった。
計算を知り尽くした人間だけが、計算を封印できる。そして損切りも誰よりも速くできる。これが「原価を計算するな」という言葉の大前提です。
中小企業の社長においても同じことが言えます。試算表を読めない社長が「細かい数字は気にするな」と言えば放漫経営です。しかし、試算表を隅々まで理解した上で「現場にはコスト管理を意識させない」という判断をする社長は、高度な財務設計者です。この違いは決定的です。
樋口が就任した1986年。アサヒビールのシェアは9.6%。キリンビールは約60%。完全な敗北でした。なぜそこまで差がついたのか。当時のアサヒビールは、典型的な「製造業の論理」で動いていました。原価を下げろ。効率を上げろ。無駄をなくせ。これがビール会社のスローガンでした。
「製造業の論理」が起こした連鎖:
しかしビールは食品です。顧客が求めているのは「安さ」ではなく「おいしさ」と「鮮度」です。製造業の原価管理が、サービス業としてのビジネスの本質を殺していた。これが当時のアサヒビールの病巣でした。
あなたの会社では、「コスト削減」という名のもとに、顧客が本当に求めているものを削っていないでしょうか。試算表の原価率が下がる一方で、顧客の評価も下がっていないでしょうか。
ここが今日の核心です。「原価を計算するな。全責任は私が取る」——この言葉の財務的意味を正確に理解してください。樋口がやったのは、経営責任の分離です。
責任の分離の構造:
現場(社員)の使命
顧客満足の最大化。鮮度・味・サービスに集中する。原価のことは考えなくていい。
社長(樋口)の使命
現場が顧客に集中した結果として跳ね上がる原価と財務リスクを、すべて引き受ける。利益責任は私が負う。
これは放漫経営ではありません。二宮尊徳の「分度」と「推譲」です。社長が「分度」——財務的な枠組みを設計し、引き受ける覚悟を持つ。現場が「推譲」——与えられた使命に全力を尽くす。
樋口は住友銀行副頭取として、数百社の決算書を見てきた。「この会社の財務体力で、どこまで原価上昇を吸収できるか」という計算が、頭の中に完全にできていた。だから言えた。「全責任は私が取る」と。
重要な区別:
計算のできない人間の「俺が責任を取る」は空手形です。計算を知り尽くした人間の「俺が責任を取る」は、財務的根拠のある約束です。
認知心理学の観点から見ると、これは「認知負荷の最適配分」です。「売上も上げろ、原価も下げろ、品質も上げろ」という三重の指令を受けた現場は、どれも中途半端になります(ワーキングメモリの限界)。社長が財務の不安を引き受けることで、現場は「顧客価値」という一点に認知資源を集中できる。これが、スーパードライという革命を生んだ科学的な根拠です。
では、なぜ樋口廣太郎はそこまで「財務の本質」を見抜く目を持っていたのか。住友銀行五反田支店長時代に遡ります。取引先の松下電器で「押し込み販売」の実態を目撃しました。商品を代理店に無理やり押し込み、売上を積み上げる。帳簿上の数字はきれいに見える。しかし実態は不良在庫の蓄積と資金繰りの悪化です。
「数字が真実を示していない」ケースを、銀行員として直接見てきた。樋口は松下電器の財務担当取締役・樋野正二氏にこの実態を正直に報告しました。すると、松下幸之助から直接電話がかかってきた。「松下ですが……」。思わず「どちらの松下さんですか?」と聞き返したエピソードは、著書に樋口自身が記しています。
五反田での学び:
表面の数字ではなく「事業の実態を見る目」の重要性。原価計算の数字は、経営の目的を達成するための道具に過ぎない。数字に使われるのではなく、数字を使いこなす側に立つ——これが樋口の財務哲学の原点でした。
住友銀行副頭取時代、頭取・磯田一郎氏がイトマンへの乱脈融資を進めようとした時、樋口は正面から諫めました。「邪魔立てするな」と一蹴され、灰皿が投げつけられた——この出来事がアサヒビールへの転出の直接の原因になります。樋口がなぜ動じなかったかが重要です。数百社の決算書を見てきた彼は、イトマンの財務構造が「持続不可能」であることを数字で見抜いていた。精神論ではなく、財務的確信に基づいた行動でした。
1986年。すべての伏線がアサヒビールで回収されました。樋口が最初にやったことは、財務の立て直しです。死蔵資産を処分して現金を作った。これが「ダム経営」の実践——松下幸之助から学んだ「まず余裕を作れ」という財務原則です。次にやったことが、経営責任の分離でした。
現場への宣言:「お前たちの仕事は、顧客に最高のビールを届けることだ。原価のことは俺が考える。鮮度を落とすな。在庫を抱えるな。客が喜ぶことだけを考えろ」
財務戦略の3ステップ:
| フェーズ | 内容 | 財務的意味 |
|---|---|---|
| ①財務の立て直し | 死蔵資産を処分→現金創出 | ダム経営の実践(余裕創出) |
| ②責任の分離 | 社長が原価リスクを引き受け、現場を解放 | 分度・推譲の実装 |
| ③市場の変革 | 鮮度重視のスーパードライが爆発的ヒット | 売上が原価上昇を大幅に超過 |
1987年のアサヒスーパードライ発売。鮮度にこだわった製品は爆発的なヒットになり、シェア9.6%から最終的に業界首位へ。在庫を長く持たず鮮度を優先すれば製造コストは上昇する。しかし売上の伸びが原価の上昇を大きく上回りました。
「計算するな」は原価を無視したのではありません。「顧客価値を最大化すれば、売上が原価を超える」という財務的確信のもとで、現場を原価管理から解放したのです。松下幸之助の言葉「経営は聖業である」——事業が社会に価値をもたらす時、財務的な成果は後からついてくる。この哲学を、具体的な財務構造として実装したのが樋口廣太郎でした。
今月の試算表を見た時、あなたは何を考えましたか。
2種類の試算表の見方:
❌ 財務に使われている社長
「原価が高い。現場がコスト管理をしていない」→ 現場に責任を転嫁している
✅ 財務を使いこなしている社長
「この原価の上昇を、売上でどう吸収するか」→ 財務責任を自分で引き受けている
原価計算を疎かにする社長は怠慢です。それは論外です。しかし、原価計算を極めた上で、顧客価値のために「原価管理を現場に押し付けない」という選択をする社長は、最高度の財務戦略家です。
樋口廣太郎が示した本質は二つです。一つ目、社長は数字の全貌を誰よりも深く把握していなければならない。「何兆円と何銭」の両方を見る計数能力が必要です。二つ目、その上で、社長が財務リスクを一手に引き受け、現場を顧客価値の創造に集中させる。これが「分度と推譲」の財務的実践です。
次回第3回は「スーパードライという賭け」——意思決定と財務リスクの話、試算表の読み方へと続きます。
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合同会社エバーグリーン経営研究所
財務コンサルタント 長瀬好征
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