その社長の「賃上げへの恐怖」は、決して珍しいことではありません。2025年春闘で平均賃上げ率は2年連続で5%台(全体5.46%、中小企業5.09%)を記録し、経営者には「賃上げは当然」という社会的プレッシャーがかかっています。東京商工リサーチの調査では、実に85.2%の企業が2025年度に賃上げを予定しているとのこと。
しかし問題は、この85.2%の企業のうち、どれだけが「事業計画に基づく戦略的な賃上げ」を行っているか、という点です。同調査によれば、持続的な賃上げ見通しが立っていない企業は34.6%、「毎年実施するのは難しい」と回答した企業は5.3%存在します。計画なき賃上げは、一時的なモチベーション向上には寄与しても、会社の財務体質を静かに蝕んでいく危険性があります。
私が30社以上の財務支援をしてきた経験から断言できます。賃上げで会社が傾くケースに共通しているのは「社長が事業計画なしに、世間の流れに乗って賃上げを決めた」ことです。価格転嫁も、生産性向上策も、資金繰りのシミュレーションも何もないまま、「従業員が大事だから」「競合他社に合わせなければ」という感情論だけで判断してしまった結果です。
財務を軸とした経営コンサルタントとして活動する長瀬好征です。渋沢栄一の「論語とそろばん」、二宮尊徳の「道徳経済合一説」、近江商人の「三方よし」の精神を現代経営に活かす「収益満開経営」を提唱しています。
賃上げは「すべき」か「すべきでないか」という二元論で語るべきものではありません。それは事業計画という「地図」を持った上で、経営者が主体的に判断すべき戦略的テーマです。
この記事を読むことで、以下のことが理解できます。
近江商人の家訓に「仕入れた商品が売れる算段ができてから、はじめて仕入れる」という教えがあります。賃上げも同じです。「払える算段」ができてから実施する──この原則を守るだけで、賃上げが会社の推進力になります。
2025年の春闘(連合第1回回答集計)では、賃上げ率が全体5.46%と前年をやや上回り、2年連続で5%台を記録しました(三菱総合研究所調べ)。中小企業(組合員300人未満)でも5.09%と、1992年以来33年ぶりに5%台に乗せています。
数字だけを見れば「賃上げが定着しつつある」という見方もできます。しかし、この数字が示す「明るい側面」だけに目を向けてはいけません。
この数字が示しているのは、「賃上げを予定しているが、財務的な裏付けに自信がない企業が3社に1社以上ある」という厳しい現実です。
さらに注目すべきは、賃上げの主な理由の内訳です。東京商工リサーチの調査によれば、賃上げ理由の上位は「従業員の離職防止」(78.0%)と「物価高への対応」(71.7%)。これは言い換えれば、「戦略的に賃上げを決めた」のではなく、「やむを得ず賃上げに踏み切った」企業が大多数であることを意味しています。
大企業(資本金10億円以上)の賃上げ率が5.39%であるのに対し、経団連の中小企業調査では4.35%にとどまっており、大手との格差も1%以上開いたままです。中小企業は賃上げ圧力を受けながら、原資確保の道筋が不透明なまま対応を迫られているのが実情です。
「賃上げが会社を傾かせる」というのは、決して大げさな表現ではありません。私が支援した実例を紹介します。
川越市内の製造業(年商5億円、従業員35名)では、2023年に業界全体の賃上げムードに乗って月給を一律2万円引き上げました。年間の人件費増加額は約840万円。当時は「売上も伸びているし大丈夫だろう」という判断でした。
しかし翌2024年、原材料価格の高騰が直撃。売上は横ばいなのに人件費だけが膨らみ、営業利益率が5.2%から1.8%に急落。さらに価格転嫁を取引先に申し込んだところ、「難しい」と断られ、キャッシュフローが急速に悪化しました。
このケースで欠けていたものは明確です。
二宮尊徳は「分度」という概念を説きました。それは「入るを量りて出を制す」──まず収入を正確に把握し、その範囲内で支出を決める思想です。賃上げという「出」を決める前に、収益という「入り」の算段を立てることが経営の本質です。
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賃上げによって利益が出ているように見えても、キャッシュフローが悪化するメカニズムを詳しく解説しています。
賃上げを「やむを得ずやること」から「戦略的にやること」に変えるためには、まず原資確保の道筋を明確にしなければなりません。以下の5つのアクションは、私が財務支援の現場で実際に活用しているフレームです。
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人件費を「コスト」ではなく「投資」として捉えることで、賃上げを経営戦略に組み込む考え方を解説しています。
事業計画に基づく賃上げとは、具体的にはどういう状態を指すのでしょうか。以下のフレームを活用することで、「感情的な賃上げ」から「戦略的な賃上げ」へ移行することができます。
Step1:賃上げ前に確認すべき5つの数字
向こう2年の売上予測は妥当か?
粗利率は賃上げ後も維持できるか?
資金繰りに3ヶ月分の余裕があるか?
価格転嫁の計画は具体化しているか?
生産性向上の具体策が存在するか?
この5つの問いに「YES」と答えられる状態を作ることが、事業計画に基づく賃上げの出発点です。
Step2:賃上げ率の設定方法
賃上げ率は「世間の平均に合わせる」のではなく、以下の計算式で算出することが理想です。
難しく感じるかもしれませんが、要は「粗利益が増加する見通しがあるか」「固定費に余裕があるか」を数字で確認するということです。この計算を経ずに「同業他社が5%上げたからうちも5%」という判断は、財務的に見て非常にリスクが高い行為です。
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賃上げと生産性向上を連動させるための財務的視点を詳しく解説しています。
賃上げは「決定したら終わり」ではありません。実施後の予実管理と、必要に応じた軌道修正こそが、賃上げを持続可能なものにする鍵です。
月次モニタリングの4つの指標
賃上げ実施後は、以下の4指標を毎月必ず確認する習慣をつけてください。
軌道修正を「失敗の証拠」と捉える必要はありません。事業計画は「地図」であり、現実との乖離に気づいたときに修正することが経営者の仕事です。修正できるのは、そもそも計画があるからです。計画のない経営では、修正すべき地図がないため、迷子になっていることすら気づかない。
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賃上げ後の予実管理を含む、事業計画の進捗管理の具体的手法を解説しています。
「従業員のために賃上げしたい」という経営者の気持ちは、本物の善意から来るものです。しかし善意だけでは会社は続きません。会社が続かなければ、従業員を守ることもできない。
渋沢栄一は「論語とそろばん」という言葉で、道徳と経済の両立を説きました。従業員を大切にする気持ち(論語)と、それを支える財務健全性(そろばん)は、二項対立ではなく、どちらも欠かすことのできない経営の両輪です。
近江商人の「三方よし」──買い手よし、売り手よし、世間よし──に従業員を重ね合わせるなら、「働き手よし」のためには会社が健全であることが前提条件です。財務的に持続不可能な賃上げは、短期的に従業員を喜ばせても、会社が倒産すれば従業員を最も苦しめる結果になります。
事業計画に基づく賃上げは、単なる財務管理の話ではありません。それは「どういう会社を作りたいか」「従業員とどういう未来を歩みたいか」という経営者のビジョンを、数字に落とし込む行為です。
賃上げをするかどうかより、「どんな会社を作るための賃上げか」を問うことが、2200年の日本に繁栄を残す経営者としての問いかけではないでしょうか。
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